短編小説集





風の街
episode 04
ローラは呆れたようにため息をつくと、車を発進させた。ルーズベルト・ロード橋を渡り、シカゴ川沿いに北上する。一度右に、それから左に曲がってミシガン・アベニューに入った。眠らない街だ。深夜だというのに、周囲のビルの明かりは煌々とついていた。

車通りはないが、酔っぱらいたちが歩道で肩を組み身体を揺らしている。がなるように声を張り上げ、歌っていた。

「わが旗は絶えずなびく。夜明けから日没まで。ところを問わず銃を手に。われらいざ戦わん。はるか北の雪の中――」

海兵隊賛歌だ。除隊した荒くれ者たちだろう。

道の先にはミシガン・アベニュー橋がかかっている。その奥にはリグリー・ビルディングとトリビューンタワーがそびえ立っていた。100年前からある建物だ。100年間ずっと、この町の乱痴気騒ぎを静かに見守ってきた。アル・カポネが逮捕されたときも、大恐慌のときも、そして母がシカゴ川に落ちたときも。

2月のシカゴ川はほとんど全面が凍っていた。橋のたもとだけ、氷の表面がひび割れて水面がのぞいている。橋から落ちた先が氷だったら、打撲で即死だろう。運よく水面に落ちたところで、あまりの冷たさに心臓が止まりかねない。

鉄橋の上に人影が見えた。車をとび降りて駆け寄る。

「兄さん」

わたしは叫んだ。人影はこちらを振り向き、動きを止めた。距離は20ヤードほど。月明りに照らされてシュウの顔が見えた。悲しそうに微笑んでいる。

わたしは銃口をシュウに向けた。予告もなく撃ちぬく。銃弾はシュウの左肩に命中した。シュウは右手で左肩を押さえながら橋の上に倒れこんだ。

「殺せよ」

近寄ると、シュウは言った。

「俺に殺されかけて、恨んでるんだろ。殺せ」

月明りに照らされた顔は、母にもわたしにもそっくりだった。卑屈に歪んだ口元だけがシュウ独自の造形だった。

わたしは何も答えなかった。ローラの足音が後ろから聞こえる。振り向いてローラに言った。

「この人だよ。保護して」

ローラはシュウに近づき、引きずるように持ち上げた。そのまま橋の入り口にとめた車にシュウを乗せた。

「あなたは?」

橋の端からローラが叫んだ。

「逃げて。追手がきてるみたい」

わたしは言った。冷たい風は容赦なくわたしの頬を叩いた。両手をウールコートのポケットに突っ込む。ポケットの奥で、小さく硬いものがぶつかった。裏地に何かが縫い付けられている。遠くから車のエンジン音が聞こえた。

「早く行って。あなたも危ない」

ローラはためらったように一瞥を与えたが、すぐに車に乗り込んで走り去った。少なくとも証人をひとり確保した。FBIの戦績としては充分だろう。

橋の中ほどに、車が3台とまった。男たちがぞろぞろと降りてくる。中央の車からトミーが降りた。仕立ての良いイタリアンスーツとチェスターコートを着ている。

「どうしてここが分かったと思う?」

トミーは愛想のよい笑みを浮かべながら訊いた。

「オルランドでしょ」

わたしはコートを脱いで、トミーの足元へ投げつけた。シルクシャツ一枚では外の冷気が刺すように痛い。

「コートにGPSがついていた。オルランドがわたしの生存をあんたにチクり、その位置を教えたわけだ。忠実な部下がいてよかったね」

「あのじいさんは忠実じゃない。お前を助けただろ。そのあと情報を流したって、もう遅い」

「それじゃ、オルランドは――」

「始末した」

トミーの綺麗な瞳からは感情が読み取れなかった。わたしの反応を楽しんでいるようにも見えるし、裏切られた悲しみを宿しているようにも見える。あるいは何も感じていないようにも。

昔はよく笑う陽気な青年だった。次第に仮面のような笑みが顔に張りつくようになり、笑い声一つ上げなくなった。

「ナナ、お前に選択肢を2つやろう。1つ、シュウを差し出せ。そうすればファミリーに戻してやる。俺にも情はある。昔みたいに仲良くやろう。2つ、1つ目が嫌なら、ここで死ね」

男たちは距離を徐々に詰めてきた。わたしの右手にはルビー・エクストラがある。弾はあと1つ。早撃ちなら負けない。トミーひとりを仕留めることはできるかもしれない。

わたしはゆっくり口を開いた。

「じいさんは言った。やるときは息の根をとめるまでやれ。そうしなきゃ、一生追われる身になる、と」

トミーはトカレフを構えた。

「じいさんはこうも言った。誠実であれ、と。だからわたしは兄さんを裏切らない」

一歩、二歩と後ずさる。背中に橋の柵がぶつかった。柵に左手をかける。

「でもわたしは、あんたのことも裏切らない」

右手に持ったルビー・エクストラをシカゴ川に投げ込んだ。そのまま身体をひるがえし、柵を乗り越えた。

トミーの目にわずかに動揺が走った。

「おいよせ。お前の母親と同じことになる。クソみたいなお前の父親をかばって死んだ、あの女と」

かつて愛した男がわたしを見つめていた。

「兄さんは渡さない。あんたも殺さない。わたしは逃げる。だから一生、追いかけてごらん」

わたしは柵から手を離した。強い横風が吹きつける。

「おい、待て。死ぬぞ――」

「さあ、どうだろうね。ルーレットは回してみなきゃ分からないよ」

足を宙に踏み出し、わたしは微笑んだ。

AUTHOR
新川帆立 (しんかわ ほたて)

2020 年『元彼の遺言状』で第 19 回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を受賞。
最新作は 2021 年 10 月 6 日発売の『倒産続きの彼女』。東大卒の元弁護士であり元プロ雀士という異色の経歴を持つ新進気鋭の小説家。