短編小説集





家電売り場のシュッツガイスト
episode 03
整理整頓をすれば人生の半分はうまく行く。

これは、カリスマ主婦のインタビューの言葉ではなく、ドイツに伝わる諺である。世界一きれい好きと謳われるだけあって、ドイツ人の家は実によく片付いている。幼い頃からハウスクリーニングをたたき込まれ、窓掃除をほんの少しでもサボろうものならだらしのない家だと烙印を押される世界で育った人々は、好き嫌いの問題以前に掃除が習慣として息づいている。

ドイツに暮らすようになってから大いに関心したことだけれど、彼らは勤勉なだけでなく、キッチンが汚れるくらいなら夕食では料理をしないなど、日本人からすると行きすぎに感じる傾向をも持ち合わせている。要は、超がつくほど合理的なのだ。

「それで、彼女の相手、ガーランに押しつけなかったんですって?」

掃除機売り場に陳列されている新製品をチェックしていると、ソフィアがそっと近づいてきた。コーヒーメーカー担当で、自身もこよなくコーヒーを愛しているせいか少し興奮しやすい。今も微かに鼻息が荒く、ピアスがじゃらじゃらと列を成してぶら下がっている耳の縁がほんのり色づいていた。

「正気なの? ガーランなんて少しくらい客に揉まれたほうがいいんだから、押しつけちゃえばよかったのに」

「いずれ直面する問題だろうし、別にいいのよ」

「まあ接客するのは私じゃないけど。でも気をつけて。彼女、なぜかこっちが一番嫌がる言葉を知っていて、ざっくり刺してくるんだから」

ソフィアが右の拳をどんと胸元にぶつけた瞬間、彼女の泉のようにすき透った瞳が揺らいだ。

「きたわ」

ゆっくりと振り返ると、視界には三人のお客達がいた。彼らのうちどの人物が彼女なのか。

右手十一時の方向でサイクロン掃除機を物色しているマダムは、いかにも掃除に一家言ありそうだし、その奥にたたずむギャル風の彼女はハンディタイプの掃除機を穴が開くほど見つめ、ただ者ではないオーラを放っている。その手前、四時の方向にいる女性は見るからに満ちたりた表情でたたずんでおり、ただの冷やかし客といった風情だった。

さて、掃除機売り場に点在するこの三人のうち、一体誰が件の相手なのか。私には、すぐにわかった。

人を緊張させる何かを発しているうちは、どんなにすごい実績の持ち主であろうと三流である。

誰あろう私の持論だ。元夫は一流トレーダーとしてもてはやされた人だったが、人を萎縮させる小さなプラズマをいつも発しており、そのくせ――。今その話はいい。
とにかく、私は見定めた相手に近づいていった。先制攻撃を仕掛けることにしたのだ。

「いらっしゃいませ。何かお手伝いできますか?」

ちらりとこちらに視線を走らせた婦人は、右手四時の方向にいた人物だ。人の好い主婦然としたたたずまいを崩さず、彼女が小首をかしげてみせた。

「こんにちは。見ない顔ね。新人さんかしら」

「はい、今日付で家電フロアに配属されました。ハルカ・シラーです」

「あら、そう。よろしくね」

ゆったりと構える相手を頭のてっぺんからつま先までさっと観察して、私は改めて確信した。彼女が、例の人物だ。そもそも見間違いようもなかったのだ。マニアはマニアを知る。相手が一流ならばなおのことである。

かくして二人だけに聞こえるゴングの音が鳴り響き、戦いの火蓋が切って落とされた。

「ところであなた、今日付で配属なんてウィークポイントを客にさらして大丈夫なの? 掃除機のことをどれくらいわかっているかしら?」

ここは、繰り出されたジャブをあえてまともに食らってみせることにした。

「昨日の今日ですから、もしかしてお客様の知識には適わないかもしれません。ただ、私もそれなりに掃除機との付き合いは長いですし。家の掃除はなるべく手軽に、簡単に済ませたいほうですので、ご相談には乗れると思います」

「へえ、そう。それじゃ、まず紙パックとサイクロン、どちらにするか悩んでいるのだけれど、あなたのおすすめは?」

ありがちな質問が繰り出され、心の中でガッツポーズを決める。

「お答えする前にお客様のライフスタイルを教えてください。ペットをお飼いですか?」

「ええ、シーズーを」

「マンションですか? 一軒家ですか?」

「一軒家よ」

「掃除機がけはどのくらいの頻度で?」

「一日に何度も」

「アレルギーは?」

「ないわ」

ここで思わせぶりな一呼吸を置いた。PC売り場で身につけた接客術のひとつだ。

「私でしたら、紙パックを選びます。サイクロンですと頻繁にゴミ捨てをする必要がありますし、その度にゴミを目にして不快です。おまけにワンちゃんの嗅覚は人の一億倍。人には気にならないサイクロンの排気の匂いも強烈に感じるはずですわ。一方で紙パックはゴミを目にする必要はありませんし――」

「なるほど」

私の声を強引に遮ると、相手も一瞬、沈黙してみせた。明らかに意図的に。
今さっきの私のあざとい戦略に対する皮肉にも思えて、意識せずに半歩下がってしまう。

「それで? 紙パックがいいとして、あなたなら、どのメーカーのどの掃除機を薦めてくださるのかしら? 確かに私の世代には紙パックのほうが馴染むけれど、最近の掃除機は機能が多すぎて、一体どれがいいのやら」

第一関門はクリアできたのだろうか。思ったよりもすんなりと次の質問へと進んだことに驚きつつも、私はM社の最新モデルを棚から取り出してみせた。

「ご存知かとは思いますが、最近発表されたばかりの商品です。少し重いですが耐久性は抜群ですし、何よりフィルターが高性能で排気口に鼻を近づけて呼吸していただいても全く臭みを感じません」

「なるほど」

「付属のカーブノズルで、ソファの下にも楽に差し込んでお掃除していただけますし」

弧を描いてカーブするノズルに付け替え、実際に陳列台の下の隙間のゴミを吸い込んでみせる。そんな私を、婦人は先ほどから全く変化のない笑顔で見守りつづけていた。
こめかみを嫌な汗が伝っていく。

「もうけっこうよ」

「え? でも」

すげない態度に驚いてノーガードになった瞬間を相手が見逃すはずもなかった。

「ネットでいくらでも拾える情報に時間を使わせてくれてありがとう。あなた、パートナーとの関係は良好かしら? もう少し、相手の心に踏み込むレッスンが必要ね」

婦人は片眉だけを上げてこちらに流し目をくれると、売り場から去っていった。

ヒールの音が遠ざかっていく。

ここがリングならば、私は間違いなくマットに沈んでいただろう。

<続く>
AUTHOR
成田名璃子 (なりた なりこ)

2011年『やまびこのいる窓』で第18回電撃小説大賞(メディアワークス文庫賞)を受賞し翌年に受賞作を改題した『月だけが、私のしていることを見おろしていた。』で小説家デビュー。2016年には『ベンチウォーマーズ』で第12回酒飲み書店員大賞を受賞。青森県出身。