短編小説集





エリザベート
episode 04
嫌だ。嘘でしょ。起きて!
ねぇ、しっかりして!

ああ、よかった。大丈夫?

叫ばないで!なにもしないから、落ち着いて。

ねぇ、だったら、そのクッションのシミのにおいを嗅いでみて。血じゃなくてコーヒーだってわかるはずよ。

それから、その黒いビニール袋も開けてちょうだい。ペトラの死体なんて入っていないから。

ただハーブティーを飲んだだけなのに、眠ってしまうから驚いたわ。お疲れだったのね。それとも気を失わせてしまったのかしら?
だとしたら本当にごめんなさい。やり過ぎたわ。

ああ、もちろん、ペトラも無事よ。行方不明にもなってないわ。
風邪をひいて寝てはいるけれど、主人と浮気もしていないはず。

袋の中身、言ったとおり、衣類だったでしょう。それ、舞台で使った衣装なの。洗濯前だから悪臭の原因も汗の沁み込んだその衣装たちで間違いないわ。

わたくしとペトラは同じ演劇サークルに所属している仲間なの。
今はこうして裏方の仕事しかしていないけれど、若いころはわたくしも女優として舞台に立っていたのよ。

昔からの知り合いが映画を撮ることになって、主役が中年女性だからか、出演をオファーされたんだけど、舞台ならまだしも、映像で今のこの顔を晒したくなくて断ったの。

その映画が、現代に甦ったエリザベート・バートリという設定のホラー作品で、さっきのやりとりは、預かった台本に書かれていたセリフ。もちろんアレンジとアドリブを加えたけれど。血を浴びたいなんて少しも思ってないし、そんな恐ろしいこと絶対に無理だから。

芝居の練習だったのかって?
いいえ、違うわ。そのお話は断ってしまったし……。

心配だったの、優希さんのことが。
ペトラは無事だけれど、このあたりで行方不明事件が起きているのは本当なの。

あなたみたいな旅をしていたら、いつ事件に巻き込まれてもおかしくないって不安になったわ。でも、おばさんのお説教なんか聞いてもらえそうになかったから、それでつい……。

まさかこんなに驚かせてしまうなんて思ってもみなかったから、やり過ぎてしまったこと、怖い思いをさせたこと、心から謝ります。ごめんなさい。

それから……、ありがとう。

なにが?ってお顔をされるわよね。でも、こんなことができたのは、優希さんに出会えたからだと思う。
あのね、昔、『若草物語』という映画を観て、スーザン・サランドン扮する母親が娘たちに言うセリフにシビれたの。

『美は老いに蝕まれるけど、心の美しさは――、永遠に輝きを失わない。ユーモア、優しさ、そして勇気、それが価値を持つのよ』

感動して心に刻んだはずなのに、いつの間にか忘れていた。
あなたの旅は無謀だけれど、無謀と勇気は紙一重なのかもしれない。そう思ったとき、ふいにこの言葉を思い出したの。
そして、歳を重ね、自分に自信が持てなくなって勇気が削がれ、挑戦できなくなっていたことにも気づいた。

だからね、なけなしの勇気を掻き集めて、演じてみたの。
優希さんのためのエリザベートを。

……は?
ありえない、ありえない、ありえない。
なにふざけたこと言ってんの!
漏らしそうなほどびびらせといて、勇気って、なに?

出会った瞬間、エリザベート・バートリが降臨したのかと思った人にあんなんされたら、誰だってびびるわ。

何度も謝りながら、静かに車を発進させるこの人に、ぶつけてやりたい言葉があり過ぎて、なにからぶつければいいのかわからない。

確かに怖い体験を求めてスロバキアまで来たわよ。
でも、違うから!
違う、違う、違う!
求めていたのはこんな怖さじゃないから!

だけど……。

「エリさん」
呼びかけると、ハンドルを握る背中がビクッと震えた。緊張が伝わってくる。

「やるんですよね?」

「……え?」


少しだけ振り返った彼女の横顔は、やはり冷たい光を放っているように見える。

「私をこれほど怖がらせておいて、やらないなんてありえないから!……エリザベート役」


冷たい光が揺らぎ、エリさんの顔が花が咲くみたいに明るい色合いでほころぶ。

永遠に抜けられないように感じた暗い森の終わりが見えてきて、私はふっと微笑んだ。

AUTHOR
美輪和音 (みわ かずね)

2010年『強欲な羊』で第7回ミステリーズ!新人賞を受賞し小説家デビュー。脚本家としても数々の作品を手掛け、代表作は映画『着信アリ』シリーズ。東京都出身。